北方町は昔から、町民の総力で支えられてきました。町で育った人、町にゆかりのある人など、多くの人々が中心になって町が動いてきました。ここでは数多くの町民・町にゆかりのある人たちの中から、特に有名な人物について紹介します。(参考文献:『北方町史 通史編』)
あんどういがのかみもりなり
安東(藤)伊賀守守就
戦国武将・織田信長に仕え、城主として北方を治めていたが、信長の怒りを買ったために北方から追い出されてしまう。信長が本能寺の変にて死んだ報せを聞き、北方へ戻るために当時の北方城主・稲葉一鉄に戦いを挑んだが敗れてしまい、守就も命を落としてしまう。この戦は「北方合戦」と呼ばれている。
おの の おつう
小野お通
美濃国・小野政秀の娘として北方で幼少期を過ごし、詩歌や書画などに秀でた才女であったとされる。 後に徳川氏に仕え、礼式作法などの指南に従事したとされる。 「浄瑠璃物語」(十二段草子)の作者とも言われているが、お通にはその出自・生きた時代など不確かな部分が多くあり、今なお研究がされている。
とだくらのすけみつかた
戸田内蔵助光賢
江戸時代に旗本として北方本町に陣屋を構え、この地を治めていた戸田氏の初代領主。 馬術に秀でており、時の将軍徳川綱吉はその馬術の見事さに感服し、光賢は北方に「冠木門」を置くことと「時の太鼓」を打つことを許された。
ののやまろくろうべえよしちか
野々山六郎兵衛義近
元禄年代に松本藩から派遣され、北方陣屋の奉行として政治を執り行った。 性格がおだやかな義近は、政治もよく行われたため、町民からは良奉行と呼ばれていた。
やべまさこ
矢部正子
北方・本町で生まれ、始めは久子、後に正子と名乗った。 19歳の時に京都に出て和歌や習字、お茶や礼儀作法などを学び、女流歌人としての素養を身につける。 このころ、なぎなた道も修めた正子は、後に肥後国・細川家の娘の礼儀・なぎなた等の指南役として仕えた。 その後、故郷に戻り尼となる。
わたなべそうざえもん
渡辺惣左衛門
代々惣左衛門の名を継ぐ、新町に居を構えた北方を代表する豪商。酒造りや物流、金融業など多岐に渡る商いを手がけ、大いに栄えた。また、書画や和歌などの文化面にも長けていた。
わたなべさざえもん
渡辺佐左衛門
惣左衛門の分家として新町で縞店を営み、桟留縞の売買などで栄えた。 俳諧にも秀でていた。
ほしのしんしょう
星野真省
ほしのやすとし
星野泰俊
真省の息子として生まれたが、家業を継がずに書や文学の勉強に励む。 後の北方小学校校長を務める等、数々の学校で要職に就いた後に、東京女子師範学校の教授になった。
さとむらりょうさく
里村良策
北方・戸羽町で医院を開き、名医として町民に慕われる。 また本巣・席田・方県3地域の医務取締りを務める。
みぞぐちますみ
溝口真澄
北方・天王町の大井神社の宮司を務めるかたわら、習字や俳句・生け花などを学び才能を発揮した。 俳句は明治百人一首に選ばれるほどであり、また生け花は「華道天真流」をひらくほどの腕前であった。
ごとうまさふみ
後藤昌文
北方・駒来町に生まれ、里村良策の養子として医術を学んだ。 後に江戸に出て、らい病研究の第一人者として評価され、らい病専門の病院も設立した。 来日したハワイ国王から研究を賞賛された昌文はハワイに招かれ、そこで数年間、現地のらい病患者の治療に尽力する。
とだくらのすけみつとお
戸田内蔵助光遠
北方・戸田家7代目、最後の領主として江戸~明治時代に北方を治めた。 晩年は北方町郵便局長も務めた。
こんどうほんげん
近藤本玄
北方町出身、高野山大学を卒業し、金剛峯寺執行長・管長となり、高野山恵光院の住職を務める。 その後、大僧正に就く。
たなはしげんたろう
棚橋源太郎
北方町に生まれ、東京高等師範学校を卒業した後に、東京高等師範学校教授や文部省の高官を務める。 アメリカ留学を経て、東京博物館(現在は国立科学博物館)の初代館長に就任、博物館法や博物館協会の設立など、日本の博物館界の発展に尽力した。
かしまげんすけ
鹿島源助
北方・梅野町に住み、本巣中学校一筋に教員を務め、この地域の教育の発展に力を注いだ。 特に細かいところまで生徒に調べさせ、生徒と共に実践的な教育に努めた姿は、教師の見本として慕われた。
ひびのつねじ
日比野恒次
北方・仲町に生まれ東大法学部を卒業、昭和3年に日本電報通信社(現在の㈱電通)に入社する。 電通ひとすじに働き昭和35年には副社長、38年には5代目社長に就任する。 社長就任中は、電通を世界に通じる総合広告企業へと発展させた。
みねぎんこ
峰吟子
本名は、馬場なつ。 北方・大門に生まれ昭和5年、『見果てぬ夢』で銀幕デビューを飾ると、女優として活動していたわずか3年間のうちに、昭和の日活映画を代表する女優として名声を浴びる。
こんどうほんしょう
近藤本昇
北方町出身、真言宗第479世寺務検校法印を務める。 後に高野山法燈を任ずる。
あんどういがのかみもりなり
安東(藤)伊賀守守就
戦国武将・織田信長に仕え、城主として北方を治めていたが、信長の怒りを買ったために北方から追い出されてしまう。信長が本能寺の変にて死んだ報せを聞き、北方へ戻るために当時の北方城主・稲葉一鉄に戦いを挑んだが敗れてしまい、守就も命を落としてしまう。この戦は「北方合戦」と呼ばれている。
おの の おつう
小野お通
美濃国・小野政秀の娘として北方で幼少期を過ごし、詩歌や書画などに秀でた才女であったとされる。 後に徳川氏に仕え、礼式作法などの指南に従事したとされる。 「浄瑠璃物語」(十二段草子)の作者とも言われているが、お通にはその出自・生きた時代など不確かな部分が多くあり、今なお研究がされている。
とだくらのすけみつかた
戸田内蔵助光賢
江戸時代に旗本として北方本町に陣屋を構え、この地を治めていた戸田氏の初代領主。 馬術に秀でており、時の将軍徳川綱吉はその馬術の見事さに感服し、光賢は北方に「冠木門」を置くことと「時の太鼓」を打つことを許された。
ののやまろくろうべえよしちか
野々山六郎兵衛義近
元禄年代に松本藩から派遣され、北方陣屋の奉行として政治を執り行った。 性格がおだやかな義近は、政治もよく行われたため、町民からは良奉行と呼ばれていた。
やべまさこ
矢部正子
北方・本町で生まれ、始めは久子、後に正子と名乗った。 19歳の時に京都に出て和歌や習字、お茶や礼儀作法などを学び、女流歌人としての素養を身につける。 このころ、なぎなた道も修めた正子は、後に肥後国・細川家の娘の礼儀・なぎなた等の指南役として仕えた。 その後、故郷に戻り尼となる。
わたなべそうざえもん
渡辺惣左衛門
代々惣左衛門の名を継ぐ、新町に居を構えた北方を代表する豪商。 酒造りや物流、金融業など多岐に渡る商いを手がけ、大いに栄えた。 また、書画や和歌などの文化面にも長けていた。
わたなべさざえもん
渡辺佐左衛門
惣左衛門の分家として新町で縞店を営み、桟留縞の売買などで栄えた。 俳諧にも秀でていた。
ほしのしんしょう
星野真省
代々御典医の家柄である星野家に生まれ、北方・清水に住む。 家業を継いで医師となり、名医と謳われる。
ほしのやすとし
星野泰俊
真省の息子として生まれたが、家業を継がずに書や文学の勉強に励む。 後の北方小学校校長を務める等、数々の学校で要職に就いた後に、東京女子師範学校の教授になった。
さとむらりょうさく
里村良策
北方・戸羽町で医院を開き、名医として町民に慕われる。 また本巣・席田・方県3地域の医務取締りを務める。
みぞぐちますみ
溝口真澄
北方・天王町の大井神社の宮司を務めるかたわら、習字や俳句・生け花などを学び才能を発揮した。 俳句は明治百人一首に選ばれるほどであり、また生け花は「華道天真流」をひらくほどの腕前であった。
ごとうまさふみ
後藤昌文
北方・駒来町に生まれ、里村良策の養子として医術を学んだ。 後に江戸に出て、らい病研究の第一人者として評価され、らい病専門の病院も設立した。 来日したハワイ国王から研究を賞賛された昌文はハワイに招かれ、そこで数年間、現地のらい病患者の治療に尽力する。
とだくらのすけみつとお
戸田内蔵助光遠
北方・戸田家7代目、最後の領主として江戸~明治時代に北方を治めた。 晩年は北方町郵便局長も務めた。
はやしたみぞう
林民造
北方・増屋町に生まれ、商家を営む。 北方小学校校長や郵便局長、北方町長などを務め、教育熱心な人物として後進の育成に励んだ。 また、北海道の土地開発事業にも取り組み、現地の発展に力を注いだ。
わたなべいくじ
渡辺郁二
北方・新町の商家に生まれ、12歳の時に京都へ奉公に出る。 そこで商業を学び30歳の時に独立し、呉服問屋として京阪実業界の重鎮へと成長していく。 北方町には多額の寄付をしており、特に北方小学校の講堂を独力で寄贈したことで有名。
おおのいさむ
大野勇
北方・地下に生まれ、公選初代町長に選ばれた。 特に公民館活動の活発化に尽力し、公民館の建築に寄与した。 また、治山治水事業にも力を入れた。
さとうていじろう
佐藤貞次郎
北方・森町に生まれ、20年間北方小学校校長を務めた。 県内の初等教育界では、教育の師として仰がれるほどの人物だった。 町史の研究にも尽力し、北方町史(大正4年版)を著した。
かみややすろう
神谷保朗
北方・加茂に生まれ、国文学を研究した。 昭和12年に「本巣郡志(上・下巻)」を刊行し、本巣郡の歴史編纂に寄与した。 華道や茶道もたしなみ、裏千家流に通じていた。
むらたえいたろう
村田永太郎
北方・加茂に生まれる。 国内初の加除式例規集を作ったことで有名な、啓文社の初代社長を務める。
むらたけんじ
村田憲司
北方・加茂の啓文社社長・村田永太郎の息子として生まれる。 父の後を継ぎ2代目社長に就任した後、現在の増屋町に本社を設立する。
こんどうほんげん
近藤本玄
北方町出身、高野山大学を卒業し、金剛峯寺執行長・管長となり、高野山恵光院の住職を務める。 その後、大僧正に就く。
たなはしげんたろう
棚橋源太郎
北方町に生まれ、東京高等師範学校を卒業した後に、東京高等師範学校教授や文部省の高官を務める。 アメリカ留学を経て、東京博物館(現在は国立科学博物館)の初代館長に就任、博物館法や博物館協会の設立など、日本の博物館界の発展に尽力した。
かしまげんすけ
鹿島源助
北方・梅野町に住み、本巣中学校一筋に教員を務め、この地域の教育の発展に力を注いだ。 特に細かいところまで生徒に調べさせ、生徒と共に実践的な教育に努めた姿は、教師の見本として慕われた。
ひびのつねじ
日比野恒次
北方・仲町に生まれ東大法学部を卒業、昭和3年に日本電報通信社(現在の㈱電通)に入社する。 電通ひとすじに働き昭和35年には副社長、38年には5代目社長に就任する。 社長就任中は、電通を世界に通じる総合広告企業へと発展させた。
みねぎんこ
峰吟子
本名は、馬場なつ。 北方・大門に生まれ昭和5年、『見果てぬ夢』で銀幕デビューを飾ると、女優として活動していたわずか3年間のうちに、昭和の日活映画を代表する女優として名声を浴びる。
こんどうほんしょう
近藤本昇
北方町出身、真言宗第479世寺務検校法印を務める。 後に高野山法燈を任ずる。